2005年2月つぶやき・・・

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2月28日 (月)
2月も最後の日になった。あまりにもいろいろな事がありすぎて2月に起こったことを振り返ると絵空事におもえて仕方がない。長い一ヶ月であった。
昨日は孫達とにぎやかにお出かけしたくて、南楽園の梅祭りに誘った。皆でにぎやかにお出かけするのは昨年の9月始めにしまなみへ一緒にお出かけしてからだから、半年振り。孫がまだ一緒に行くのを嫌がらないうちに沢山お出かけしようと思っているのだがいつまで続く事やら・・・。半年ほど前まではゆうきくんはばあちゃんとチューするのを喜んでいたのに、今は「きもい」(気持ち悪いと言う意味)なんて嫌がられる始末。南楽園は梅の香が満ち溢れて、まるで別世界。南楽園の梅祭りは3回目の訪問だったが見事に手入れされた梅は相も変わらずいつも美しい。娘は南楽園は小学生のとき以来だと言っていた。娘が小学生当時、同居人が単身赴任の転勤で南予に住んでいたため、子どもたちを連れ、南予までよく遊びに行っていた。その頃まだできたばかりの南楽園に立ち寄った事があった。南楽園の池で子どもをボートに乗せたりして遊んだ。私もボートを漕ぐほど元気で若い時代があったようだ。昨日の南楽園へ向かう車中で娘と話していて20年も前のことを思い出した。
2月27日 (日)
今日は父の二七日(ふたなぬか)。昨夜は逮夜(前日)でまた大勢が集まって父のために“般若心経” 修証義(しゅしょうぎ)第二章” “妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈(みょうほうれんげきょうかんぜおんぼさつふもんぼんげ)…略して観音経” 以上3つのお経を唱えた。私の後方に座っていた孫のゆうきくんが大きくてよく通る澄んだ声で経本を見ながら一緒にお経を読んでくれたので、お経の後、ゆうきくんの頭をなでながらおもいっきり褒めたたえた。ひいじいちゃんも相当喜んでいると思うよ。ゆうきくんも「疲れた〜」といいながらやり遂げた満足感でちょっと誇らしげ。
お坊さんの話によると、死んでから400里(約1600km.)の長い道のりを歩きとおし、初七日にやっと三途の川のほとりにたどり着き、生前の善行、悪行を問われ、二週目はその行いにより浅瀬の川を渡るか、それとも鉱石でできたきれいな橋を渡るか、それとも渦を巻いた激流を渡るかするのだそうな。殺人などを犯した人は当然激流。鉱石の橋は一般人は通れないそうでだいたい普通の人は浅瀬の川を渡っていくらしい。二七日(ふたなぬか)に対岸へたどり着き、そこで待ち受けていた老婆が手を引っ張って川から引き上げてくれるそう。そして着ているものを身包みはがされて、番人がそれを高い木の枝に吊るし、今までの罪の重さを計るらしい。したがって父は今日は身包みはがされて審判を受けている事だろう。さて三週目は父は極楽へ向かってどのような旅をするのだろう。その話は来週またお坊さんから聞くとしよう。父が49日までの長い道のりを少しでも楽に歩けるよう手を貸してあげるのが私たちの唱えるお経らしい。まあいわば父の応援歌といったところだろうか。お坊さんも言っていた。「誰も行って帰ったものがないから四十九日の道程は本当のことは分かりませんが経典ではそのように書かれています。
2月26日 (土)
昨日のつぶやきにも書いた『樽見の大桜と天滝ウォーキング2日間のたび』
その滝ウォーキングは実は7つの滝を巡ることになっている。そのうち2つは日本の滝100選に取り上げられているので自分の足と相談して行けるものなら是非挑戦してみたいのである。
2月25日 (金)
『明るいほうへ、明るいほうへ』金子みすゞの詩のように生きているはずだった。39歳でリウマチを発病しても、神様の思し召し・・・なんて・・・呑気に、あるがままを、できる限り生きて来た。それが昨日はほとほとリウマチという病気が嫌になった。
新聞紙面の広告で、『樽見の大桜と天滝ウォーキング2日間のたび』とても魅力的な旅である。どのくらい歩くのだろう。旅行社に問い合わせる。受付の女性からこの旅を企画した男性に電話が取り次がれる。「この企画はそん所そこらの旅行社のとは違います。4年くらい前から計画し、今年やっと実現の運びになりました。樽見の大桜は仙桜ともいい名前のように仙人の住むような山奥にあります。片道60分。まだまだ奥にも2・3本すごい桜があるんですが、そこまではかなり遠いので断念しました。天滝(てんたき)は天にまで届くような西日本随一の滝でこれも片道60分かかります。80歳の人でも行きますから大丈夫ですよ。」 聞けば聞くほど魅力的だが、聞けば聞くほど遠のいていく話もあるものだ。左足裏が踏みしめたら痛い状態ではとても無理と言うもの。この旅行に同居人が相当乗り気で「私は無理!」と言うと「最後の山行きだと思って参加せい。」とかなり強引。「一人で参加したら・・・」というと「お母さんはバスの中で待っていたらええが・・・」と言いだす始末。旅行社の人が言っていた。「この旅行は宿もそうとう素晴らしいんです。夕食は別料金ですが3000円から15000円まで4種類から選ぶことになっています。」「よーし、無理に連れて行くのなら、15000円の料理を食べて、おいしいお酒も酔うほど飲んでやる〜〜」
今日か、明日、旅行のパンフレットが送られてくる。
電話を切るとき相手の男性が「○○です。よろしくお願いします。」
私はあなたの声聞いたときから知っていましたよ。吉野の桜見に行ったときお世話してくださいましたね。
ほとんどの人はその晩『大阪帝国ホテル』へ宿泊して、翌日鞍馬の桜を見に行ったんだけど、私達4人は吉野の桜を見るだけでその晩神戸から船で松山へ帰ることになっていたから大型観光バスはお客4人とあなたとバスガイドと運転手の7人をのせて神戸まで走りましたよね。途中夕食に立ち寄ったレストランで、海に向かったカウンターで肩を並べて食事しながら対岸のものすごい雷ショーを「すごい、すごい、こわ〜い」とはしゃぎながら楽しみましたよね。もし、今度の旅行に参加することになり6年ぶりに顔を合わせたらあなたは私を覚えてくれているでしょうか?
2月24日 (木)
ひーちゃん!
彼女とは今から30年ほど前、父の会社で知り合った。職場では私のほうが数年先輩だったが彼女は一つ年上。当時は日本も好景気で会社も仕事が忙しく活気があった。小さい会社で、当時社長であった父一人、忙しそうに駆け回る傍らで私達は女性ながらも社長を助ける頼もしい企業戦士協同体だった。素人離れした容貌、スリムな体系、並外れたセンス。それが彼女の最初の印象だった。それに加え、女ながら度胸があり、会社の男性従業員も一目置く存在になっていった。仕事もきちんとこなし、清廉潔白この上ない。そのうえ字も非常にきれい。見習うことが沢山あり、会社でおしゃべりするのが楽しくって楽しくって。私は今から10年くらい前会社から手を引いたが、一緒に仕事をした20年余はまさに素晴らしい人生勉強をさせてもらった貴重な時間となった。平成7年、きっとよくなって帰って来ると思っていた母が入院先で亡くなったときは彼女は私が心配するくらい大声を上げて泣いた。そんなことがあったので父の病名は彼女にだけは打ち明けておいた。家族同様父や私達と係わってくれた彼女には父のことをすべて知っておいて欲しかった。他人には生まれてきたが、肉親以上に信頼できる人間はいるものだ。私にとってそういう人がひーちゃんである。
父のお見舞いに来てくれたひーちゃんに私のHPのアドレスを教えると早速会社のパソコンで見てくれているらしい。
私と、同居人の顔を浮かべながら、大笑いしたり・・・
2月23日 (水)
先日初七日で里へ行ったとき、妹と本の話になった。今、坂東真砂子の『曼荼羅道』を読み始めたこと、坂東真砂子作の昔の作品『死国』や『狗神』のこと。『狗神』の冒頭に出てくる善光寺の戒壇めぐりに衝撃をうけて、去年の夏、善光寺へ行ったこと、などを次から次へ話していると、妹曰く、「ひーちゃんが、姉ちゃんのHP見てその戒壇めぐりの話で笑い転げた言ってたよ。」
そう、以前にも書いたが西国三十三番札所谷汲山華厳寺で同居人と戒壇めぐりをしたとき真っ暗闇で同居人がギャ〜ッと恐怖のあまり叫んだこと。「生暖かくてブヨンとしたものに触れた」とかで。触れたのは愛する妻の手だったのに失礼な話である。
『曼荼羅道』は先日、日赤リウマチセンターへ行ったときから読み始めたが、待ち時間が異様に長かったにもかかわらず14ページまでしか読み進んでいない。待ち時間のほとんどを椅子で眠りこけていた。恥ずかしいほど眠っていて、看護婦さんと目が合った時、「次の次ですから」と順番を告げられた。本の読み始めはとても退屈なものと、最初っから引き込まれるものとがあるが『曼荼羅道』は前者のほうで、あと数ページ我慢して読み進めると、思いがけない展開が待っていると期待しているのだが。
きょうの妹の会話の中に出できたひーちゃんについてはまた今度詳しく紹介する。
新発見=猫という字をうったら =^_^= (=^・^=) (=^・・^=)こんな絵文字が出てきた。知らなかったのは私だけかも・・・
2月22日 (火)
昨日のつぶやきにも書いた子ども部屋の片付けの後、とてもよく手伝ってくれた同居人の好きな本をプレゼントするために(プレゼントといってもお金の出所は同居人の稼ぎだからこういう言い方ははなはだ不遜ではあるが)一緒に本屋へ行った。
その車の中での会話。同居人がある離婚した夫婦のことについて話し出した。離婚原因は男が結婚生活を放棄しようと試みた事に端を発したが、女は離婚したくないと言いながら自分で離婚届を取り寄せ自分の名前とはんこを押し男の前に突き出した。実際に離婚届を目の前にしたら男が一歩引き、ためらい、思いなおすのではとの女の算段があった。その算段は大きく外れ、かえって「試すような事をした」と男をより怒らせてしまい、結局男の思う壺の離婚と相成った。その女の事を同居人が言い出した。
同居人「わしでも離婚届を突きつけられて試されるような事したらそうとう怒って離婚する」
私「そうなん、そしたら私も離婚届取り寄せてその手でいこう」
同居人「そんなことしたら離婚届破り捨てるぞ」
同居人「おかあさんにはもう手はないよ」

私に手はないと同居人は言い放ったが、手はいくらでもある。何分私はずるがしこくてしたたかな女なんだから、同居人よ侮ってはいけない。今までは父が生きていて父に心配かけることは私の周りからすべて排除してきたがこれからは誰に遠慮もなく自由に生きられるのだ!
2月21日 (月)
今朝は一段と冷え込みが厳しい朝だった。明け方、肩口が冷えて冷えて毛布で肩をくるんでもシンと底冷えする寒さにはかなわなかった。普段なら寝ていても寒いのなら…とさっさと起き出してパソコンに向かうのだが昨日一日、2階の物置と化した子どもの部屋をずっと片付けていたので、酷使したわが身のために5時半の目覚ましがなるまで布団の中でイングリモングリしていた。つい最近、本の重みでマンションの床が抜け落ちたというニュースをみてから我家の子どもの部屋が気になって仕方がなかった。やっと自分の時間ができ、休日でもあったし同居人にも手伝ってもらって、二人で舞い上がる埃にゴホゴホ言いながら、雑誌とか、子供向け百科事典とか、昔子どもが手作りして遊んでいたリモコンカーなどもろもろのおもちゃの山をおもいっきり整理した。ゴミの袋が何袋もできたがまだまだ部屋の片付けは二割がたしか進んでいない。来週の休日はまた同居人と一緒に天袋などを整理してみよう。ひょっとして思いがけない掘り出し物が出てくるかも・・・
しかし、子どもの部屋でアルバムを見つけては最初のページからめくり始めるのでは、時間がどれほどあっても片付けはなかなか進まない。その写真の中にまだ小さい我が子と写った私の唯一の水着姿の写真があった。自分で言うのもなんだけど結構いけてた。今の自分とはまったくの別人。30年近い歳月はこうも姿を醜く変えるのか?まあ過ぎ去った歳月で失ったものも多いが、その代わり得たものもあるから相殺してどうにか良しとしよう。
2月20日 (日)
今日は父の初七日である。昨晩、子や孫、ひ孫、親戚、父の友人たち35人ほどが集まり
お逮夜(たいや)をした。49日の忌明けまであの世に向かってつらい道を歩いている故人を励まし助けるためお坊さんを先頭に皆で“般若心経”と修証義(しゅしょうぎ)第一章”を大きい声で一生懸命唱えた。
法要の後、49(満中陰)の日にちを皆の都合を聞きながら決める。父の場合は当たりの日が4月3日(日)で三月(みつき)越しとなる。私達としては三月越しになってもきちんと49日をしてあげたいと思っている。どこかのお坊さんの法話で、「三月越しはいけないと、五七日(いつなぬか)で49を行う家もあるがこれは人間の都合で、本当は三月に渡っても49日までしてあげるほうがいいですよ。」と聞いたことがある。どこのお坊さんもそういう考えかと思えばうちのお寺の住職から「三月越しになるけれどいいですか?」と念を押された。三月越しを忌み嫌うのは『始終(四十)苦(九)が身(三)に付く(月)』という単なる語呂合わせのせいで他に特別な意味はないらしい。4月3日はちょうどお節句とも重なり列席していただく方に迷惑が掛かりはしないかと気にはなったが皆さん快く4月3日の49に賛同して下さり決定となった。両親の墓地は道旧寺というお寺の境内にあり、4月3日の法要の日は境内の桜がそれはそれは見事に咲き誇っている事だろう。 ♪
☆言葉の意味☆
お逮夜とは・・・中陰日(忌日)の前日の夜の事。中陰日(忌日)でなく逮夜にお勤めをするところも多い。亡くなった日から6日目が「初七日逮夜」となる。「初七日逮夜」を略して「初七日」と中陰日と同じ様に言うので??となってしまう。
2月19日 (土)
抗リウマチ薬リウマトレックスの副作用
“リウマチ薬副作用で134人死亡!” 記事が新聞に載った2月12日は私は病院の中で父と共に世間とかけ離れた生活をしていたのでこのニュースはまったく知らなかった。リウマチの友Kさんからのメールと同居人の話で後日これを知り、ネットで調べた。私も長年服用を続けている薬である。リウマチの最先端医療を行っている日赤松山リウマチセンターでは1999年日本の厚生労働省でこの薬が認可される10年以上前からこの薬を使用しており、私もこの薬のお陰でリウマチをコントロールできている。このことは平成14年抗リウマチ薬の服用量が少し減っただけでリウマチ熱が出て身体が硬直し、日常生活ができなくなったことで自分の身をもって証明された。今、元気に普通の生活ができているのも問題となっているリウマトレックスのお陰である。定期的に血液検査しながら服用を続けている。
昨日は2ヶ月ぶりのリウマチ科の定期健診で日赤を訪れたが、待合室のローカまで患者があふれ久しぶりの混雑に驚いた。ここ数年、リウマチ科の診察は待ち時間も少なくスムースに受診できていたのだが一体どういうこと?と首をひねる。テーブルの上に『リウマトレックス内服中の皆様へ』とプリントが置いてあり、目を通す。日赤リウマチセンターには延べ2000人のリウマチ患者が通院しており、その80%以上の人がこの薬の服用により良好なコントロールを治めていると記されていた。担当医Y先生によると「この記事が出てから病院への問い合わせも非常に多く、薬の服用を中止したいと言う患者さんや、割合落ち着いている患者さんやら反応はいろいろです。」ということであったが、私の場合はむしろこの薬が私の身体の救いの神と思っている。昨日のリウマチセンターの異常な混雑もどうもこの薬の副作用の記事が関係しているらしい。
2月18日 (金)
〜ガン告知〜
平成7年、まだ67歳の若さの母を胆管ガンで、そして先日83歳の父を肝臓ガンで失った。母の病気が発見されたときはガンは骨まで転移しており当然のごとく病名を伏せての入院生活であった。一向によくならない病状に母は「一体私の身体はどうしたんだろう?」と疑問の日々だったが、そのうち病気のことは口に出さなくなりいつも考え込んでいた。母の亡き後、「病名を言っておくべきだったかどうか」後悔のしっぱなしである。妹と「元気なうちにやっぱりガンになった時告知してもらうかどうか家族で話し合っておくべきだね。」と話していたにもかかわらずその話し合いはうやむやになりやっぱり父にも病名を伏せてしまった。
同居人の父もガンで亡くなっており、私達夫婦はガンで亡くなる確率が非常に高く昨晩同居人と、もしガンになったら告知してもらうかどうか話し合った。
同居人は「知らせてくれなくてもいい。そのうち自分で分かるから。それと病院へはおかあさん(これ私のこと)だけに来て欲しい。」
私は「どんなに末期であってもすべて話して欲しい。自分の病状は克明に自分で知っておきたい。それと身体が動くうちにしておかなければならないことが沢山あるから。」やはり話し合ってよかったと思っている。夫婦でも捉え方考え方がまったく反対なんだから・・・
できることならこういうことはずっと先に起こってほしいな。私たちはまだまだしたい事が沢山あるから。
さあ、今日は2ヶ月ぶりの日赤リウマチ科の定期健診。身体のあちこちがカチカチで非常に疲れているがこれはリウマチ科ではどうにもならないだろう。やっぱり整体だ!
2月17日 (木)
2月14日、バレンタインデーの日に父が自宅で、いつも座っているソファーに頭をもたげて眠るが如く、母のもとへ旅立った。静かな死に際だった。
大腸ガンから転移した肝臓ガンの進行が思いのほか早く、1月末に主治医から「2月いっぱいもつかどうか」と驚くような宣告を受け私達家族は傷心の日々を送っていたが父は食事も少量ではあるが取りはじめ、割合身体も楽そうで坦々とした病院生活を送っていた。2月9日に妹の連れ合いの父親が亡くなりお葬式のため大阪へ行っている間の3日間、私は病院から一歩も外へ出ることなく父と病室で寝食を共にしていたが別段変わった様子もなく、私も好きな本を読み、父も水戸黄門や暴れん坊将軍、ニュースなど好きなテレビ番組を楽しんでいた。病状が落ち着いているときに一度外泊をとの主治医の判断で妹達が大阪から帰るのを待って13日自宅へ帰った。その晩は子供、孫、ひ孫、あわせて総勢20名近く集まり皆で父を囲んでにぎやかに会食した。父もみんなの楽しそうな姿を眺めて満足げであった。翌14日、妹が「じいちゃん病院へ戻る支度しようか」と声をかけるとすでに呼吸が停止していた。14日からの病院生活は、地獄のような日々になると私達は覚悟していた。これから黄疸も強く出て、それはそれはつらい闘病を父はするはずだった。したがって眠るように我家で息を引き取った父の死に際はそれでよかったのではないかと私自身に納得させている。
今は私の心は虚脱状態で、あの病室へ行けば父が待ってくれているような錯覚すらしている。お通夜の晩、お坊さんが言ってくれた言葉。「○○さんは、皆が喜ぶ姿を見て喜ぶような人でした。姿かたちは無くなりますが皆さんの心の中にいつまでも生きつづけるでしょう。」
父と一対一で向き合って過ごした100日あまりの闘病生活は父から私達子供や孫への最後のプレゼントだったと思っている。
長い間つぶやきをお休みしている間も毎日HPを訪れてくださってありがとう。
これからもT先生と研究しながらいいHPになるよう頑張りますので訪問してくださいね。気がつけばいつの間にやら梅の季節も終わりかけていました。私のHPも最初に載せた桜のページを再び載せましたので、またよかったら見てくださいね。同居人は落ち込んでいる私のために今年も桜三昧をさせてくれるように昨日一生懸命計画してくれていたようです。いい写真をお見せできるよう頑張ります。
2月9日 (水)
・・・ブログ ☆彡
1月11日のつぶやきでも取り上げたが“ブログ”という言葉を最近頻繁に耳にするようになった。先日娘婿が娘と交わしている言葉。「おまえブログしたら。ブログで年間500万稼いでいるやつがいるぞ。」・・・「ウンッ?」隣で耳を傾けていたshizukagozenがすかさず「なんでそんなに儲けるの?」「お母さんその人の書いているブログが男性諸君に共感を呼び大人気でアクセス数がすごいんであちこちから広告搭載依頼がありブログに載せる広告料がすごいらしいです。」「ふ〜ん・・・そのHP送っておいて!」というようなわけで、あるサラリーマンの『実録鬼嫁日記』なるブログと出会う事に。この鬼嫁ほどではないがどこの家庭にもありがちな出来事。口答えもせずせっせと鬼嫁に従うなさけな〜い夫!この哀れな亭主が世の男性どもの共感を呼ぶらしい。我家では玄関の外まで亭主を送り出し車が見えなくなるまで「いってらしゃ〜い」と手を振って見送るのが結婚以来の慣わしとなっていたが、ここ3ヶ月くらい見送りに出ていない。なんかお決まりの見送りがバカらしくなって・・・出勤する同居人を無視し、最近はパジャマ姿のままストーブの前で心ここにあらず、「いってらしゃ〜い」と口先女。しっかり鬼嫁になりつつある。手を抜き始めると際限がなく、人気ブログの鬼嫁にもすぐ近づきそうな気配。亭主どもよ、しっかりせよ。そうでないとよか嫁がすぐ鬼嫁に変身してしまう〜〜〜!
人気ブログ 『実録鬼嫁日記これホント面白い
2月8日 (火)
えんどうご飯
まったく食べる意欲をなくしている父に「一番何が食べたい?」と聞くと「ほうじゃのう、えんどうご飯が食べたいのう」
同居人の母がえんどう豆の好きな私のために毎年えんどう豆を植えてくれ去年もたくさん収穫して冷凍保存しておいた。えんどうご飯は勿論のこと、チラシ寿司やカレーやシチューにも入れ、えんどう豆の卵とじなどもしてえんどう豆をふんだんに食べてもだいたい5月の収穫時期にはまだ冷凍保存した豆が少し残っている状態なのに、今年は間が悪い事に父が食べたいというこの大切な時期にえんどう豆の在庫がゼロの状態。日曜日娘宅へ寄ったとき「おえんどう冷凍にしてるの残ってない?」と聞いてみたがあいにく「ない」と言う返事。同居人の母に聞いても「ない」と言う返事。仕方ない、夕食後どこかのマーケットでも探してみよう。そんな風に思っていたやさき、娘が日曜日の夜「冷凍庫の中を探していると少しえんどう豆の冷凍があったから。3粒ほど茹でてみたけどまだ柔らかくて結構食べられたから持ってきた」とわざわざ届けにきてくれた。ありがたや〜〜〜。月曜日の朝えんどうご飯を父用に柔らかめに炊いた。病院で昼食と夕食に食べてもらった。しっかりとかみ締めて味わっておいしそうに食べてくれなによりだった。次はこれまた父の大好きな一寸ソラマメをおいしく味つけして持って行こう。
2月7日 (月)
☆shizukagozenの“昨日”の一日☆
午前11時妹と交替して病院を出る。自宅へ帰る前に前日イチゴ農家の人から新鮮なイチゴをお見舞いに頂いたので石手に住む娘宅へおすそわけ。元気いっぱいの孫達を見て疲れが少し取れたような・・・娘が肩を揉んでくれたりもして・・・30分ほど居て早々と自宅へ帰る。NHKのど自慢を見ながら煮込んでいたカレーで同居人と昼食。続いて『新婚さんいらっしゃい』を見てから昼食の後片付け。黒豆茶を沸かしている間に畑にほうれん草と蕪を取りに行く。ほうれん草は茹で、蕪はうす切りして塩もみの後、昼食時に食べきったラッキョの甘酢が勿体なかったので唐辛子の輪切りと出し昆布を細かくきり入れ、醤油で味を整え蕪の甘酢漬けを一品。その後やっとパソコンに向かう。久しぶりにPhotoShopを開き『切り抜き』に挑戦。先日娘婿と話しているとき「画像の切抜きがうまくできない」というので「すごくきれいにできる方法があるよ。今度教えてあげる。」と約束したものだから何通りかの方法を試してみる。もっともきれいにできる方法はやっぱりフィルターメニューの抽出機能だった。ちょっと使い方難しいかな?まあ、複雑な切抜きはどちみち辛気くさい作業である。つぶやきを書いたりメールの返事を出したり、結構時間が経っていた。さみしそうに一人でテレビ見ている同居人と一緒に午後のティータイム。DVDのハードディスクに保存していた瀬戸内寂聴さん出演の『情熱大陸』を見ながら。夕食の準備に取り掛かろうかと思ったら同居人が「今日は夕日がきれいに見えそうだ」と言うものだからあわててカメラを持ちコートを引っ掛け急遽お気に入りのモンチッチ海岸へ車を走らせる。いたいた先客が・・・河口にできた州に三脚を構えたカメラマンが。期待していた夕焼けにはならなかったが久しぶりの撮影でシャッター押す手が緊張した。風景モードでデジタルズームを最大にして撮影したのに一枚も手ブレがなかったことに自分で驚く。午後6時帰宅。同居人はリキの散歩。私は夕飯支度前に砥部の美容室の先生の携帯へ8日の予約を入れる。いきなり先生が痴呆の出ているお父さんのことをぺらぺら話し出し30分経っても話が終わりそうにないのでちょっと強引にこちらから電話を切る。塩さばをグリルで焼き始めたらなにやら玄関のチャイムが鳴ったような・・・気のせいかなと思いながら玄関へ行くとなんと孫達が嬉しそうに立っている。娘がありがたい届け物を持ってきてくれた(この届け物の事は明日書く)。炊き立てのご飯が一番のご馳走のあり合わせのもので急ににぎやかな夕食となる。夕食後ゆうきくんはじいちゃんに時計の見方を教わった。10分も経たないうちに時計の針の意味が分かり驚いた。春から一年生。機が熟した時に教えると無理なく頭に入るらしい。そういえば同居人は娘が小さいときも必死に時計の見方を教えていたっけ。同居人は子、孫と2世代にわたって時計を教えた事になる。
娘たちを見送り、お風呂へ入り10時過ぎ就寝。
2月6日 (日)
病院でおかしかった事
父は身体に水が溜まって足指までパンパン。個室の中にあるトイレへ行くのもしんどそうなのでベッドの脇に立ってもらっておしっこを尿瓶(しびん)でとることにした。父の下着をぬがせ尿瓶をあてがう。点滴の中に利尿剤が入っているので、割合たくさんのおしっこがでる。尿瓶を支えている私もほとばしりでる尿を見て嬉しくっておもわず「でたでた。気持ちがいいくらいでてるよ」と言葉がはずむ。「こんな病室で親子が尿が出ただのどうだの喜びあって・・・」とつぶやくのでおもわず「ほんとおかしな話よね。でもおしっこが出なかったらおおごとよ」と声を出して笑い転げた。病室で声を出して笑ったのは初めて。父は1日3500cc前後のたくさんの尿が出て今は身体の腫れもずいぶん引いた。
病院で嬉しかった事
昨日お見舞いに来てくれた人と父との会話。
「娘さんが二人交替で看てくれてええなあ」
「ほうよ、娘の看病にはあだがない」
私達なりに心を込めて一生懸命している姿を父が「あだがない」という具体的な表現をしてくれたお陰で、それなりに満足してくれていたんだとわかりちょっと心にじーんときた。
2月5日 (土)
先週ぐらいから急に身体のあちこちがガタガタと壊れかけである。
左大腿骨が痛いし、左肘に激痛も走ったりして、自分自身にしか分からない身体の変調。ちょっと困っている。
少し時間の方が落ち着いたら整体にでも行ってみようと思っている。
私にはかかりつけの整体の先生がいる。突然の40肩で腕が上がらなかったとき同居人の紹介で初めてお世話になった。娘もスノボーで首やら腰やらを痛めたとき数回お世話になった。先生は患者の骨やら身体を触って性格が分かるらしい。その先生が娘に言った。「骨がお父さんとよく似てる。おかあさんのようにのんびりせんといかんよ。」同居人は神経質で細かい。娘は同居人ほどではないがちょっと似ているところがある。そして私は骨の中までのんびりしているらしい・・・
自己分析するとのんびりしていると言うよりは自分勝手でマイペース、複雑な物事にあまり係わりたくないめんどくさがりやなだけ・・・
2月4日 (金)
◇◆今日は立春◆◇
『立春』ときけば言葉の語呂で春の近づきを感じ、すこし心がうきうき・・・
しかし、この寒さではまだまだ春の実感わかないな〜〜。
2月2日、松山方面へ車を走らせていたら雪をかぶった対向車にかなり出会う。一体どこからそんな大雪持って走ってきたの?と不思議なくらい道中の景色は雪とは無縁。それから20分後娘の車を見て驚いた。雪がうず高く積もっている・・・石手のほうは大雪だったらしい。ほんの10キロしか離れてないのに雪が積もる地域と積もらない地域があるとは、信じられない。
息子と久しぶりにメッセンジャーで長い会話をした。ちょっと心に引っかかる愚痴をおもいっきりこぼしていると「結局物事には多面性があって、いろいろな見方や考え方ができます。最近そういうふうにいろいろなことを考えられるように努力しています。」と返ってきた。おっ!いつの間にか私にお説教してるジャン!その息子は最近インターネットで超現代語訳 『徒然草』 読んでると言っていた。お正月に帰ったとき私が読書三昧している姿に刺激されたのかも・・・しかし私は本屋へせっせと通うのに、最近の若い人はインターネットで読書とはいやはや恐れ入った。『徒然草』に興味のある方みてください。
http://contest.thinkquest.gr.jp/tqj1998/10058/
2月3日 (木)
◇◆今日は節分◆◇
節分とはもともと「季節の分かれ目」という意味。春夏秋冬の四季の分かれ目である、立春・立夏・立秋・立冬の前日をすべて節分と言っていたそうだが、いつの頃からか立春の前日だけがクローズアップされるようになった。
先日taekoちゃんに「節分の日、お巻き寿司丸かじりする?」と聞いてみたがそんなことはしないそうだ。巻き寿司の丸かじりなどここ数年まえから始まった商戦用の行事かと思っていたら、結構ないわれがあるので驚いた。
巻き寿司には『福を巻き込む』という願いがこめられ、切らずに丸かじりするのは『縁を切らない』という願掛けだそう。その年の歳徳神(としとくじん)の位置する方角「恵方」(えほう)(または「あきの方」とも言う)を向き、しかも無言で丸かじりすると、一年間幸せに暮らせるそうな。
歳徳神(としとくじん)は女性の神様で、その年の福徳を司る神様。今年の恵方は『西南西』。この方角が今年一年の大吉方。日本全国?の人が同じ方角を向いて巻き寿司にかぶりついている姿を、想像するだけでも楽しいではないか。
我家の同居人は丸かじり大好き人間。shizukagozenは今夜は病院どまりで留守だが、同居人は仕事帰りきっと太巻き寿司を買って帰り(たぶん2本)、西南西向いて一人で節分の行事をきちんとこなす事だろう。
今朝6時半から8時半まで不燃物のゴミ収集場所の整理整頓、および掃除当番。よりによってこの一番寒い時期に当番が回ってきて運が悪〜〜。でもモノは考えよう。誰もが嫌がるような日にこそ値打ちがあるというもの・・・なんていい子ぶっちゃいました!
2月2日 (水)
『アンネの日記』にこういう一説が出てくる。
隠れ家生活を送っている13歳のアンネが、屋根裏から眺める道行く女性達を観察して…こわい顔も、優しい顔もありますけど、どっちになるかは、たぶんご主人さんの気質によって決まるんでしょう…
13歳ながらの洞察力に思わず唸ってしまった。
はてはて、shizukagozenはどんな顔をして歩いているんだろう。
相手がいるときは結構にこやかな顔をしているが一人の時はおそろしく険しい顔かも。アンネが見たらどう評価してくれるだろうか?
まあ、あれやこれやと悩める事があると優しい顔にもなかなかなれない
今日この頃〜
2月1日 (火)
昨夜は往生した。
突然左肘の関節(軟骨)がくい違い?腕を曲げようとすると激痛が走る。伸ばした状態なら痛みはないのだが、ねじたり曲げたり、少しでも角度を変えると息が止まる位の激痛。こりゃ大変なことになった。いろいろ考えたあげく、お風呂で温めることに気がまわった。左手をぶらんと伸ばしたまま浴槽の蛇口をひねる。『湯布院の湯』の温泉の素も入れた。セーターは四苦八苦しながら何とか脱げたもののスカートの脇のボタンをはずそうと右手だけで努力したが脂肪太りのお腹の肉におもいっきり食い込んでニッチモサッチモならない。ボタンを引きちぎろうかとも考えたが後で困るので、仕方がないので同居人のところへ行き食い込んだボタンをはずしてもらう。なんとか湯船につかり温まってきた肘を少しずつ揉み解す。肘の引っ掛かりがじわりと治った。お風呂ってすごい。お風呂の中から同居人におもいっきり叫んだ。「なおったよ〜〜!」。
肘が治るまでに浴槽で考えた事。・・・父の介護どうしよう。大好きなパソコンも右手だけでは無理かなぁ、服も自分で脱げないのじゃあこれから先の人生は真っ暗闇夜、死んでしまおうか、いや死ぬ前に一応は立花の片山先生(整体の先生)にみてもらおう、あっ車の運転も無理・・・
今も肘に違和感は残っているものの、こうしてパソコンのキーも打てるので一安心。人間の身体はちょっとサイクルが狂っただけで生活そのものが根底からひっくり返りそうになるから心底怖いと思った。それと、お風呂の効用には驚いた。リウマチの友Kさんがせっせと温泉に通うわけが昨夜やっとわかった。
〜♪今月から行間を少し広くした。今までは行間が標準設定になっていたのだが、「行間を広くすると読みやすいかも」と先月25日、T先生と一緒に勉強した成果である♪〜