2004年12月つぶやき・・・

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12月31日 (金)
〜sizukagozenの2004年回顧〜
2004年元旦、今年一年何事もないように・・・と願った365日。あれよあれよと息つくまもなく最後の一日になった。心配事、考え事も複雑に絡み合い、人生即ち苦しみ・・・と言い切りたいところだが、私のいいところはそれをモノともせず結構前向きに生きることができること。
楽しかったことしか振り返らないようにしている.。
楽天的なshizukagozenの今年のベスト5


 ☆ホームページを持ったこと
 ☆そのおかげでメルトモができたこと
 ☆3年ぶりに海外旅行に出たこと
 ☆桜三昧、旅行三昧、写真三昧したこと 
 ☆人の優しさにいっぱい触れたこと



『つぶやき』を読んでくださっている皆さん、本年はどうもありがとう。来年ものんびり稚拙な文章を書いていきますのでよかったら訪問お願いします。そしてたくさんのメールくださいね。

年末を締めくくって私の大好きな写真をあなたに・・・
『キロロの森』

12月30日 (木)
昨日の焦付いたお鍋、やっぱり磨いた。安物のお鍋だが結婚してまもなく買ったお鍋という事と、同居人が単身赴任であちこち転々としているとき必ず持って回ったお鍋である事、などいろいろ考えていると結局捨てられなくなってしまった。まあ何十年と生きているとそれなりにこだわりの品物も増えていい事やらどうやら・・・
今日は大阪の息子が帰ってくる。高速バスで帰ってくるので私が終点の駅まで迎えに行って二人で楽しいおしゃべりをしながらお昼を食べ、じいちゃんの病院へ寄り、今夜は家族でささやかな忘年会という事で焼肉店へ繰り出す事になっている。本当は今夜私が病院泊まりの番なのだが甥が私に代わってお泊りしてくれる事になった。
娘ばかりでなく孫も総出で看病してくれるなんて父はなんと幸せな病人だろう。
12月29日 (水) 12:23記
先ほど病院から帰り、『つぶやき』を書くためにパソコンを開ける。つぶやきを書き始めるといきなり空気清浄機がゴーゴーとフル回転しだす。なんか部屋の中も煙くさい。思い出した。さっき自分の昼ごはんのために残り物の大根の煮付けに火を通していた。あわてて台所へ行くがすでに手遅れ。台所は焦げ臭い煙で充満し鍋の大根は真っ黒こげ。ア〜、これでお昼のささやかなおかずもなくなったし・・・真っ黒焦げの鍋がコンロに居座っているし・・・まあ自分の昼ごはんはどうってことないがこれから鍋の焦げ付きを落とす作業を思うと気が重い。火を点けたらそばから離れてはいけないと今年何回も失敗した挙句自分に言い聞かせていたのまたやってしまった。今、私の頭の中は、「お鍋磨こうか、それともあのまま捨てようか?」と思案中。いま、考えていると急にどっと疲れが出たから多分後者になるだろう。皆さん、火には充分気をつけてね。
12月28日 (火)
この『つぶやき』を書いていて最近とっても気になることがある。それは文字化け。皆さんもお気づきだろうか?私の文中に時々意味不明な記号のような文字が入っていることを。あれは私が打っている文字ではない。私が正確に打ってもインターネット上では文字が変化しているのである。文字化け解消のHTML言語を各ページに一行付け加えれば解決するのだが、ただ今、時間的に落ち着いてそれができないので、読んでくださっている皆さんにすまないな・・・と思っている。
今年の私の一番大きな出来事はなんといってもマイHPができたことかな。こんな楽しいことが世の中にあったのかと思うほど現在もパソコン大好きで〜す。その割にはまったく進歩がないんだけど・・・


話は変わるけど皆さん知っていました?ヨン様がお忍びで奥道後ホテルや道後の大和屋本店に来ていたこと。私が見たわけじゃなく道後界隈の人から聞いた話だから本当かどうか分からないけどもっぱらの噂。「ヨン様だったら是非会ってみたかったな!」
shizukagosenは冬ソナのヨン様よりホテリアーの髪を短くしたクールなヨン様のほうが好き・・・
12月27日 (月)
昨日父の病室でインド洋スマトラ沖の大地震のニュース速報の第一報を聞く。ずいぶん身体の調子もよくなってイヤホーンをつけてテレビを見ていた父が「すごい地震じゃが!」と読書に夢中の私に教えてくれる。それから父とテレビに釘付け。スマトラ島、タイのプーケット島、スリランカなど沿岸が津波でおおごとに。今日の朝刊の地震情報では津波で一万人近い死者とでている。年末も近いこの時期大変なことだ。地球が怒っている・・・そんな気がした。
私の知っている地震の被害にあったスリランカについてちょっと・・・
スリランカという国はちょっと年齢の高い私にはイギリスの統治時代の呼び名“セイロン島”の方がなじみがある。紅茶(セイロン茶)の産地としてその昔地理でも習った。スリランカの古都キャンディ(盆地で日本の京都のようなところ)に仏歯寺というお寺がある。お釈迦様が亡くなられて火葬したとき誰かがその歯を一本盗み、その仏歯がインドや各地を点々とめぐり現在このキャンディの仏歯寺へ納められているらしい。セイロン島の名前のときは紅茶で有名くらいにしか知らなかったが最近テレビショッピングなどでスリランカ産の色石の宝石(サファイヤやルビーなど)がよく紹介されるので最近はスリランカと言ったら即、私の大好きな宝石を思い浮かべる。
12月26日 (日)
サンタさんなんて本当はいない・・・そんなことある時期がきたら子供はわかっていると思っていた。わが28歳の息子。りっぱな大人になった息子の口から数年前信じられないようなことを聞きつけた。
子供の頃、我家に本当にサンタさんが来たという。そりに乗って・・・
我家でたった一間の畳の部屋で寝ているとき障子の向こうからやってきたと言う。見たらしい。本当にマジで話しサンタの存在を肯定する。聞いていた私や28歳の息子の姉は大笑いした。「あなた、幸せな人ねえ!」
息子は今でも本当にサンタが来たと信じているのだ。息子を知らない人がこの話を聞いたらうちの息子はそうとう知恵遅れかと疑われそうだが息子は普通の、いや普通よりちょっと頭のいい大人なのである。
24日、孫のゆうきくんに言った。「もし明日の朝起きてサンタさんのプレゼントがなかったら来年はばあちゃんとこへ泊まりにおいで。ばあちゃんとこには絶対サンタが来るからね。○○君がサンタが来たのを見たと言っていたよ」  ゆうきくん宅へ昨日サンタさんは来たかな〜?
12月25日 (土)
ホワイトクリスマスならぬ霧雨のそぼ降るどんよりとしたクリスマスになった。もっと気温が下がればこれが地上を覆い隠す真っ白い雪に変わるのだろうが・・・
昨夕は私のほんの少しの量の夕食と今日のほんの少しの量の朝食を求めて松山の大型スーパーへ立ち寄った。スーパーはクリスマス準備の買い物客でごった返している。山のように並べられたきれいに盛り合わせたパーティープレート。新鮮そうな握りずしの盛り合わせ。どの人の買い物かごもあふれるほどの今夜のための食材。ほんの少しの買い物で大勢のレジの列に並ぶ場違いな自分に気後れ。
そんなちょっとさみしい気持ちで買い物をすませ父の待つ病室へ。
夕方、娘と孫が病室へ現れた。黄色いバラを中心とした華やいだ花束を手に持って。病室が急にパッと明るくなる。
父と二人の静かなクリスマスイブの夜が更けた。
12月24日 (金)
昨日は夕方から同居人と二人だけのクリスマスをした。と言ってもドライブかたがたイルミネーションめぐり。松山の白水台から始まり道後、重信、丹原の梅錦ガーデン、西条と駆け巡る。例年だと24日は我家に子供や孫達が集まりささやかなクリスマス会を開く。私も何日も前からあれこれ考えながら皆にプレゼントを用意したりして。今年は私のリウマチ科の診察予定が午後から入っており、それが終われば父の待つ病院でお泊りである。私にとっても父にとっても病院で迎える初めてのクリスマスイブ。絶食中の父にケーキのプレゼントもできず、ひっそりと病室で私は『豊饒の海第三巻暁の寺』を開いていることだろう。皆さんは素敵なクリスマスを過ごしてくださいね。

昨日撮影のイルミネーション。shizukagosenから、皆さんへのささやかなクリスマスプレゼント。見てくださいね。
12月22日 (水)
きのうは今治市方面へ食事に出かける。一応今年のけじめの忘年会なのでちょっとおしゃれな店でちょっと贅沢な洋食のコース料理を注文。青い空と青い海と来島海峡大橋がきれいに見わたせる高台にあるこじんまりしたレストラン。内装もなかなかおしゃれ。食前酒で乾杯して日頃のうさを存分に晴らしてきた。最近笑うことが少なかったが道中の車中からにぎやかな会話と笑いの渦でやっぱり気のおけない友達はいいなあと改めて彼女達に感謝。来年の新年会の計画も完了し、ひとまず安堵。レストランの窓から見える来島海峡と素敵な店内と素敵な私達の写真を載せて見ました、と言いたいところだが素敵な私達?は今回は省きます。
海峡レストラン『ボヌール ブッソール』より
昨晩は出来栄えはともかく年賀状を仕上げとりあえずほっとしている。
12月21日 (火)
切羽詰らないと物事に着手できないずぼらな性格は子どもの頃から直らないもので、24日までに出すと元旦に確実に届くと言う年賀状に時間が切羽詰りやっと取り掛かった。二日がかりでやっとこさパソコンへの住所録の入力が終わり、いざ文面をと昨夜いろいろしてみるがどーもイマイチ。今年は自分の友人用をわずか40枚くらい作るだけなので、考えてみれば枚数も少ない。そういえばパソコン使えない時は毛筆で全部手書きだったからそれもよかろう・・・なんて考えたりもして。数年前は顔料を買って海に昇る朝日を一枚一枚水墨画風に?いや水彩画風に描いて色を添えたこともあったっけ。ここ数年我家に届く年賀状も、印刷物が全体の95%以上を占めるようになった。賀状の届くのが待ち遠しかった毛筆の絵と文字の素晴らしかった北海道の渡辺さんも亡くなったし、素晴らしい版画の和子さんも亡くなったし・・・個性あふれる賀状が手元にだんだん届かなくなり淋しい限りである。
さあ、今日は友人と久々のお出かけだ。昼間の忘年会に出かける。
家へ帰ってから落ち着いてゆっくり賀状に取り掛かろう。やっぱりパソコンでするのが一番速いか!
12月20日 (月)
先週、毎月一回の、お決まりの美容室へ行った。椅子に座っていると鏡に『眉カット12月は1000円→500円』の張り紙が目に付いた。本格的な眉カットなど生まれてこの方したことがない。通常は気が向いたとき昔ながらの安全カミソリで眉の周辺のむさくるしくなった無駄毛をチョイチョイと整えるだけ。だいたい私のヘアースタイルは眉が見えないから今まで眉カットの必要もなかった。でも1000円のところが500円になるのならしてみようかと言う事になりその道のプロにお願いした。きれいに眉をカットし整えてくれおまけに肌触りもソフトな電気カミソリで顔のうぶげまできれいに剃ってくれ一皮向けて急に垢抜けて?ビックリした。やっぱりお金はかけてみるものだ。その日は腕のいいカットときれいな眉で気分的に一日華やいでいた。今年はフェイスケア用の電気カミソリでも自分にクリスマスプレゼントしよう。(>_<)
12月19日 (日)
毎度毎度ばかげた事を書いて、読んでくださっている人に本当に申し訳ないと思いながらも、今日も思いっきりあきれ返るほどバカな自分をさらけ出す。午前中NHK教育テレビの『日曜美術館』を番組途中から何気なく見ていた。高野山の金剛峰寺が紹介されその次に熊野の那智。那智では那智大社の宝物殿に収められている室町時代作の『那智山熊野権現宮曼荼羅』の絵が作家の夢枕獏さんの詳しい解説で紹介されていてそれを真剣に聞いていると何故だか分からないが突然頭の中が“自分の、はたまた人間の一生って短〜っ”と今まであまり考える事もなかったことが急に頭の中いっぱいに広がってきた。普通の人なら人間の一生って短いなんて事はごく当たり前に考えているし、分かっている事で今更驚く事でも何でもなかろうに。愚かな私は今日突然人生は本当に短いと真摯に受け止めた。残された時間の短さ。それと今まで無造作に生きてきた時間の勿体なさ。過ぎ去った取り返しのつかない時間が歯がゆい、なんておもいっきり地団太踏んだ未練がましいshizukagozenである。
12月18日 (土)
先ほど新聞を取りに外へ出ると地面に雨の後がポツリポツリ。昨日は車の中からサングラス越しにあんなに澄み切った青空が見えたのに、今日はすこし天気が崩れるのだろうか。同居人は土曜出勤で仕事に出かけ、病院は今日の正午妹とバトンタッチするので久々に家でゆっくりとくつろいでいる。先ほどDVDのハードディスクに録画していた『大奥・最終章』を見た。三代将軍家光に仕えた春日局の終焉だった。平成元年私は第一回目の四国霊場めぐりをはじめ、その結願のため平成二年三月十日早朝、初めて高野山の地へ足を踏み入れた。早朝の事とてこれ以上ないほどの霊気(冷気)漂う荘厳な雰囲気の中、吐く息も白く長い石畳を奥の院へ進む。石畳の両横には名だたる人の苔むした大きなお墓が整然と並んで奥の院の神秘をより募らせていた。その奥の院の最も深いところに春日局のさほど大きくないお墓がひっそりと苔に覆われて息づいていた。石畳に居並ぶお墓に比べ規模は小さいが奥の院に一番近いところと言う事では今で言う一等席にあたる場所にお墓はある。気をつけて見ないと見落としそうなお墓だったが春日の局ということで思わず手を合わす。あれから何度も高野山へ足を運んだが今は春日の局のお墓もきれいに囲われて気軽にお参りできなくなっている。写真撮影も奥の院と共に禁止区域に入ってしまった。春日局さまに興味のおありの方、春日局さまは高野山奥の院で弘法大師様に見守れれてすぐそばで眠っていますよ。
12月17日 (金)
83歳の禁煙!
父から最も奪ってはいけないもの、それはお酒とタバコ。これを入院を余儀なくされた父から奪ったものだから、生甲斐をとられたようでボーッとした頭でむずかる事むずかる事。タバコを吸いたいとひっきりなしにジェスチャーで訴えるものだから孫娘が苦肉の策で病院前のコンビニから禁煙パイポなるものを買ってきた。「じいちゃん。病院は火や煙が出たらいけないから火のつかんタバコにしたよ。」いくら頭がボーっとしているといっても絶対父はこんなものには振り向きもしないだろうと思っていたら以外や以外、タバコを持つ手と同じポーズでおいしそうにゆったりと燻らせている(煙が出ないから燻らせるという表現はちょっと変!)。今や病院で父のなくてはならないものの筆頭になっている。看護婦さんも先生も病院の人みーんな、にせタバコだと知っているのに先生が病室へ入ってきた途端ベッドの反対側の床にさりげなく捨てる。「何でこんな貴重なもの捨てるんよ。」と私が怒ると、「こんなもん吸いよったら先生をバカにしとるようで悪かろ」と父の弁。ウーン、私たちよりはるかに奥が深かった。ずるさはさすが年の功。でも床に捨てるのではなくせめて枕の下に隠すくらいにして欲しいな。とっても貴重なものだから!父の吸っているものは禁煙パイポのようなものだが龍角散の名前も可愛い『パピット』。「おいしそうに吸っているけどどんな味がするの?」と聞くと「葉タバコの味がする」と言うので笑っちゃいました。葉タバコよりずっと高級なミントやシナモン、甜茶エキスなど天然ハーブの香りのするとってもさわやかな『パピット』なのであります。
12月16日 (木)
昨日の朝、父の病室のテレビからサザンの『TSUNAMI』が流れてきた。この曲は私の思い出の曲である。平成12年3月、日赤松山へリウマチによる手の手術で入院していたとき。看護婦が「今、TSUNAMIと言う曲がはやっとるんよ。すごくいい曲」と言うものだから「どんな曲?歌ってみて!」というと彼女が音程の外れたへたくそなハミングを始めた。退院後、テレビで『TSUNAMI』を聞く。彼女のハミングとはかけ離れていたが彼女の言うように本当にいい曲だった。この曲が流れるたび、入院していた仲間、気のいい看護婦、質の高い看護をしてくれたりウマリ病棟がキラキラ星の様に頭をよぎる。リウマチで日赤松山へ通い始めてまもなく丸17年。リウマチ科の先生、看護婦、受付の人、一度も気まずい思いをしたことがなく、よって病院へ行くのが楽しみだとまでは言わないが本当に感謝している。
12月15日 (水)
昨日はT先生に来ていただいたがパソコンの動きがそうとう遅く、先生ともども苛々しながらの勉強で大幅に時間オーバーとなり先生にご迷惑をおかけしてしまった。「時間のあるときにデフラグしておいたほうがいいですよ」という事だったので、今日正午頃病院から帰り、すぐにインターネットの接続を切り、不用のプラグラムの削除、ディスククリーンアップ、デフラグと続けてする。デフラグは7時間もかかり今やっと終了した(19:30)。デフラグする前のファイルは網の目のように複雑になっておりこれではパソコンの中の風通しもさぞ悪かっただろう。今はすっきり整理され心もちパソコンの動きがスムースな気がする。
12月14日 (火)
今月は私の組が二つに別れるため市役所や部落へ名簿の提出やらその他書類作成の機会が沢山あった。仕事を持っているわけではないのでパソコンで文書作成をする機会などほとんどなく、作成に取り掛かって四苦八苦した。昨年はかなり勉強したと思っているWordやExcelがすっかり空っぽの状態で困ったものであった。本を出して一から勉強するには時間がなく、なんとか辻褄を合わせて書類作成をしたのだが、T先生が見たらきっと物忘れの早い教えがいのない生徒で嘆かれる事だろう。今日は午前中ひさしぶりにT先生とお勉強。教わる事は際限がなくいっぱいあるが忘れる速度が教わる以上に速いので自分一人で『何やってるんだろう!』と腐っている。
12月13日 (月)
父の病室で読み始めた三島由紀夫の最後の小説『豊饒の海』。第一巻がだいぶん大詰めに近づいた。三島由紀夫のかけ離れたすごさを文章の一語一語から鳥肌が立つくらい感じ取っている。最後の作品という事で三島由紀夫の自殺前の心情とも重ね合わせながら私の平凡な頭脳では読み返してもわからない難解な文章と向かい合っている。夢日記をつけている主人公清顕、タイのラーマ五世の王子(現在の王はラーマ九世)の日本への留学。この小説の夢日記とタイの王子にかこつけてどうしても書きたい事がある。私が先月タイのチェンマイへ宿泊した夜見た夢。不思議な不思議な夢だった。目覚めは妙な充実感が漂っていたが、わりあいはっきりした筋書きの夢だったのに思い出そうとしてもはっきりしているのは最後の場面のみで後は靄の中。タイの民族衣装に身を包んだ金の冠をかぶったまだ少年の域を出てない一人の男の子。私は弟のようにその子を看病していた。まだあちらへ逝ってはいけないと必死に諭す私。苦しい長い時間が経ち、「よく頑張ったね。それではもう逝ってもいいよ。」と私が言い、優しく身体をさするとその子は両腕を高く頭上に上げなんともいえない満足した顔で身体ごと昇天した。昇天という言葉がぴったりなほど神聖な現象だった。日本よりはるかに仏教信仰の深い国が私にそんな夢を見させたのか。タイに泊まった最初の夜、何でこんな夢見たのだろう。今でも不思議で不思議で心の中がモヤモヤしている。私の見た夢はその不思議さでは『豊饒の海』に限りなく近いものだと小説を読み進めながら胃に鈍い重たさを感じている。
12月12日 (日)
昨日は病院帰りに乗松賢二さんが所属しているクラブの写真展に立ち寄る。愛好家の集まりで結成されたクラブは写真の個性もさまざま。デジカメで撮影、思いっきり加工した写真も5枚ほど展示してあり興味を引いたがここまで加工しなくてもというのが正直な感想。早々に写真展を引き上げ、東温市にある県花き総合センターへ11月に植え替えられた花壇を見に行く。写真を少し撮ってきたので見てくださいね。

県花き総合センター 2004.12.11 撮影
12月10日 (金)
バンコクの空港で・・・
バンコクに継ぐ二番目に大きいタイの都市チェンマイへのトランジットのため時間つぶししている暇〜な私の目の前。4、5人の背の高いカッコいい若い男女。その中の一人が航空チケットカウンターで係りの人となにやら英語で話している。話し終えて仲間に伝えて今度は仲間同士の会話。なんと耳慣れた韓国語でしゃべっている。韓国語の会話の内容などはまったくわからないが耳はしっかり韓国語の雰囲気を捉えていた。今まで自宅で何十時間となく韓国語のドラマを聞いているので、韓国語がやけに耳に懐かしく思わずそばにより会話に参加したくなったくらいだ。ドラマのように本当におしゃれで背が高くカッコいい韓国人のグループ。 今度は私の目の前でおどおどした日本の新婚カップル。バンコクからタイのプーケット島へ乗り継いで行くらしい。航空カウンターの人と言葉もろくに通じずおどおどしていてちょっと哀れ。韓国人のほうがグローバル化が身体的にも精神的にも進んでいるのを目の当たりにし、先進国と言われる日本人として一瞬劣等感を感じたりするこれまた、田舎者丸出しのまったくグローバル化の進んでいないshizukagozenである。
12月9日 (木)
何か楽しい出来事はないものかと最近毎日思うのだが、病院と自宅のみという生活をしている身には楽しい出来事など起こる由もなし。したがって最近思いっきり笑ったことがない。ころころ笑う単純な自分が取り柄だと思っているのだが最近笑う材料がないのだ。病室ではいつも「しんどい、しんどい」を連発する可哀そうな父と向き合い、とても気持ちがいいというマッサージを足の先から頭の先まで丁寧に繰り返し、「しんどいね。頑張ってね」という辛気臭い会話のみ。そんな父がこんな事を言ってニタッと笑った。「両足を二人の娘に揉んでもらいながら、二人の賑やかな会話を聞いているのは楽しいのう」
気がめいりがちな病室。これからできるだけ明るく元気に振舞おう。
12月8日 (水)
そろそろ年賀状の準備をする時期になってきた。
用意ができているのはインクjジェット用の官製年賀葉書だけ。今年、パソコンのハードディスクが壊れ住所録も全部喪失してしまい、まず住所録を一から作り直さなければならない。来週火曜日T先生に来ていただく事になったのでそれから住所録はボチボチ着手しよう。
先日、「年賀状取り掛かっている?」と娘と話していると「公園で撮影した子供のいい写真があり、それを年賀状に使おうと思っていたら、ゆうきがPhotoShopでいっぱい顔に落書きをして遊んでいて、上書きしますかのパソコンの問いにわけもわからず『はい』にチェックしてしまい写真が使えなくなって困っているんよ」とぼやいていた。私なんぞついこのあいだからPhotoShopなるものをおそるおそる触り始めたばかりなのに最近の子はまだ字もろくに書けなくてもパソコンを自由に恐れもせず触りまくるから、パソコンの中の大事なものはよっぽど親が管理していないととんだ事になりそうだ。
12月7日 (火)
例年なら12月に入ると忘年会の計画など主婦をしていても2、3回は予定が入ってくるが今年はまだ何も決まっていない。丹原の梅錦ガーデンのイルミネーション見物も夜の食事を兼ねて毎年3回ぐらいはメンバーを変えて出かけていた。残念な事に今年はまだ一つも忘年会などの計画が進まない。会いたい人に会う時間すらできない状態である。どこかで何とか時間を捻出して一晩くらいは無礼講で楽しもう。
12月6日 (月)
昨日の乗松賢二さんの撮影小話を少し
20年前に新聞に初投稿?(写真の場合はどう言うのだろうか)した写真がいきなり掲載された。それから病み付きになり今や写真コンテストに度々応募し賞金を稼いでいるとか。もちろん賞金目当てではないようだが、好きな写真で賞を頂きそれに伴って賞金がついてくるのならそれに越したことはない。一番最近の賞は香川県主催の『海辺の風景』というコンテストで見事特選をしとめ賞金10万円を頂いたそうである。北条の改修される前の長浜海岸の写真でも度々賞を頂いたとか。今年紅葉を撮りに行った京都のお寺では三脚を持っているだけでお寺へ入ることを拒まれおうじょうしたとか。最近アマチュアカメラマンが増えたからそのマナーにも眉をひそめたい場面などに出会うことも多く、お寺側もそんなカメラマンを嫌がって苦肉の策を出しているのかもわからない。
12月5日 (日)
出会いは突然に・・・
昨日は親戚のみんま(今年なくなった仏様のお正月)に出かけた。お墓へお参りした後の宴席で私の真向かいに座った男性。私が北条だと知ると御輿を階段から転がす国津神社の祭りの撮影によく行っていると言う話になる。「写真をなさっているのですか」という話から、その人が新聞紙上やその他いろいろなところで写真と名前をよくお見かけするアマチュアカメラマンで結構有名な乗松賢二さんと知る。「エ〜ッ!あなたが乗松賢二さんですか。名前はよく存じ上げています。」そんな事で俄然写真の話で盛り上がり2時間ほど楽しい撮影話を聞く事に。写真クラブ名の入った名刺もいただき、来週の土曜日には写真展にも招待された。
乗松さんの写真は祭りとか人物の写真が多い。風景はあまり好きではないという。写真の若々しい感じから30代くらいの元気盛りの方かなと思っていたが実際は60を少し過ぎた穏やかな方であった。乗松さんはどうもデジカメには否定的であった。デジカメは加工などができてそうとう楽しいのに、きっとカメラマンのプライドが許さないのだろう。

11月末の新居浜での女性カメラマンとの出会い、昨日のアマチュアカメラマンの乗松賢二さんとの出会い、私の方向がだんだん決まりそうな予感・・・
12月4日 (土)
11月28日の『つぶやき』でも取り上げた故・和子さんのご主人さんから昨日郵便物が届いた。「ささやかな遺画集ですが故人を偲んでやって頂けたら幸いです。」と一言添えて、『 水辺の春 −角本和子遺画集ー 』と題した画集が送られて来た。それはそれは素敵な画集で作品数は少ないけれど改めて素晴らしい彼女を失った悲しみがこみ上げて来た。一枚一枚ゆっくりと彼女の絵と向き合った。私の知らない彼女の厳しい目が合った。華やかな彼女からは想像できない重厚な雰囲気の絵ばかり。ページの終わりに亡くなる3ヶ月前に鹿児島旅行で写した70歳とは思えない美しい彼女の写真の下にご主人さんが言葉を添えていた。・・・趣味で油絵に手を染め20年、拘束されるのを嫌い気ままに描き続けた作品は、それでも50数点にもなっていた。幼稚な域を出ない作品ではあるが、中には創作意欲に夜を徹し、心血を注いだ作品もあり、追善にその歩みを一冊の画集に纏めようと子供達と計画、一周忌を前に実現したものである。素人の写真を基調にした画集であり、原画の微妙な色彩を出してやれなかったことが残念でならない。また四散した作品も多く、残された資料(写真)を頼りの編纂であったが、その資料すらない作品もあり、割愛せざるを得なかった。「妙高の初夏」「信濃追憶」など数点は、今は私たちのまな裏に焼きついているのみである・・・
ご主人さんにとってどれほど耐え難い一年であったか、彼女の作品を前にご主人さんの彼女に対する並々ならぬ熱い愛情を感じる。
私の手元にまた宝物が一つ・・・
12月3日 (金)
今年は当番で近所22軒の組長をしている。組長は納税の事や連絡事項等毎月一回の仕事から、組内の行事を一切取り仕切る。今年は組内のお葬式が10月と昨日と2回もあり組長の立場として大変慌てた。昨日亡くなった方はわりあい思いがけない死で年齢も60代半ばととても悲しいお葬式になった。同居人も私も葬式の男仕事と女仕事を組の年配の皆さんに助けていただきながらどうにかこなす事ができほっとしている。私たちの組も軒数が増えたので来年から2つに分かれようという話が昨年当たりから出ておりその正式な話し合いの場を12月5日の夜設定した。しっかりした意見を持った方たちのたくさんいる組で活発な意見交換の場になりそうなので、私達若夫婦?はしっかり司会進行しなければと今から気を引き締めている。今年最初の道後のホテルで行った新年会から始まり近くのお堂のお祭りやいろいろ沢山の行事をクリアしてきたが5日の大きな話し合いでだいたい一年の重要な責務は終わりそうだ。後ひと月足らず。これ以上私たちの組に何事も降って湧かないように祈っている。
12月2日 (木)
私達日本人が東南アジアに行ったときは驚くほど立派なホテルに宿泊することができる。先日のバンコクも309メートルの高さの84階の展望階をもつホテルのスカイゾーンと呼ばれる値段のちょっと高い高層階に宿泊した。大きな部屋の大きなベッドに寝そべり覗きこまれるのは月明かりのみという部屋から眼下の夜景を堪能しながら眠りにつくことができた。その部屋がまた格別広すぎてクローゼットは奥まった別の一角にあるし、トイレも洗面所も通常では考えられないくらい部屋の中を歩く。
話はこれからが本題。その奥まったクローゼットの片隅に体重計が置いてあった。自宅では怖くってずいぶん長い間体重計にのっていないが、父の看病と少し減った食欲とで期待しつつのってみる。なんと目を疑った。もう一度のりなおしてみる。やっぱり同じ。ショック!旅行から帰ってから、同居人に「ホテルの体重計おかしくなかった?」と聞いた。「おう、あれは5キロから7キロくらい体重が増えとったぞ」と言うのを聞いてそうとう安心した。それで昨夜は思い切って自宅の体脂肪計のついた体重計で測定してみた。だいたい予測したとおりの体重と体脂肪でなんら介護やつれも出ていず。同居人に「あと3キロは痩せんといかん」というと「3キロでええんか」「5キロも落としたら中年女はやつれて見えるから3キロぐらいがちょうどいいんじゃない」「ほうか」と結論が出た。がこれから結果をどう出すか・・・
(^_-)-☆
曲が変わりました・・・≪星に願いを≫
12月1日 (水)
今月はもう師走。
私は師ではないが走り出したいほどここ一週間のスケジュールが慌しい。日ごろ時間に追われることのない気ままな生活を送っている私はこういう時間の切羽詰った使い方をするとき結構パニクる。したがって妹や娘、甥などに負担を強いてしまうが父の病院は4日間ほどお暇を頂いた。今朝から食事を摂る事のできるようになった父に「頑張ってご飯食べてね」と言って午前中妹と選手交替してきた。病院から開放はされたが頭の片隅にいつも父の影がちらつくから知らないうちに脳が考えているのかもわからない。父の看病から開放され先月バンコクへ5日間旅行に行かせてもらったがそのときも毎晩父の夢を見るので、私の脳は現在父に奪われっぱなしである。